シンフォニエッタ秘話

1925年5月2日、南ボヘミアのピーセクの広場に近いソコル体育館で、ヤナーチェクは自作のヴァイオリン・ソナタ、「消えた男の日記」、「ラシュスコ舞曲」を演奏した。その際、パソフスキー(1882~1952)指揮する、第11歩兵連隊「パラツキー」軍楽隊の演奏を聴く。昔ながらの服装で、ソロの時は起立して吹く楽士たちのファンファーレに、ヤナーチェクは深い感銘を受けた。

これが機会となり、翌年にソコル体育団体のフェスティバル用にファンファーレ作曲を、リドヴェー・ノヴィニ紙編集局から依頼されひと月で完成した。ヤナーチェクはこの作品が“ソコル・シンフォニエッタ”と呼ばれるのを嫌い、“軍隊シンフォニエッタ”だ、と主張していた。彼の愛国心は、『タラス・ブーリバ』など第一次世界大戦中の作品に反映されており、祖国独立後の1923年9月15日には、“わが国軍に寄す”という短いコラムすら書いている。

曲は「イントラーダ」を冒頭に置く、アレグロ、アダージョ、スケルツォ、フィナーレという、4楽章のほぼ三部形式の「交響組曲」で、内容は『タラス・ブーリバ』の姉妹編と言える。

この作品について作曲者は語っている。『・・・それから私が見たのは、奇跡的な変貌を遂げたこのブルノの町です。陰鬱な市庁舎、深みから悲鳴の聞こえてくる、かつては牢獄だったシュピルベルクの丘、通りや群衆などへの嫌悪が、私から消えたのです。奇跡のように自由が呼び出され、町の上に輝く・・それが1918年10月28日の祖国再生。私はその中に私自身の姿を見ました。私は祖国に属している。そして勝利のトランペットの咆哮。エリシカ王妃の建てた修道院の聖なる静けさ、夜の影、緑の丘の吐息、栄えゆく町ブルノの壮大さ。これらすべてが、私に“シンフォニエッタ”を書かせたのです」。