JP CBS/COLUMBIA OS194 ブルーノ・ワルター コロムビア交響楽団 ベートーヴェン 交響曲6番「田園」
われわれがこの曲に求め、この曲にイメージするすべてがあるといってよい ― 人気曲ゆえに名演も多い『英雄』にあって、ここに聴かれるワルター一流の晴朗なリリシズムは未だに凌ぐものがありません。古典主義的ともいえる厳格で端正な音楽づくりを基本としながらも、所々にロマン主義的な自由な解釈をも聴かせるブルーノ・ワルター晩年の名演です。ただそこには付帯条件がつきまとう。確かに迫力だけではヴィルヘルム・フルトヴェングラーや最近の古楽器系演奏に劣り、造形の厳しさと言う点ではヴァント等に劣るだろう。しかし、なんともよく歌い、流れが実に自然な良い演奏で素直に感動できる。ワルターのベートーヴェンは、音のエッジが丸く柔らかく総じて暖かい。ベートーヴェンの古典派を代表する交響曲として交響曲3番〈英雄〉作曲の背景にあるものの受け止め方が理由だが、激しく燃えるような演奏が好みの人には、この演奏は合わないだろう。特に、この「英雄」は実に暖かく、穏やかな表情をもつ演奏になっている。而してワルターがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したSP12吋5枚の《田園》がイギリスで出たのは1937年2月であった。それから後に終戦後まもなくフィラデルフィア管弦楽団を指揮したやはりSP12吋5枚のが出たが、それ以外にワルターは《田園》を録音していなかったのである。さてワルターの芸風からしてベートーヴェンの交響曲中で《田園》が最も適した作品の一つであり、それは彼がウィーン・フィルを指揮した80年前の演奏がいかに録音は旧式になっても最も充実した出来であることをみてもわかるが、それだけに彼の交響曲は全部ニューヨーク・フィルハーモニックで録音したのに《田園》だけを演奏しなかったのか、ワルターを尊敬し彼のベートーヴェンの演奏を愛している人々には解せなかったのである。そのままワルターは引退をしてしまったので彼の《田園》は遂に古い吹込みのまま残される運命となってしまった。ところがいったん引退を声明したワルターが83歳の老体をひっさげて再びレコード界に再起して1958年の1月に録音したのがこの《田園》であったことは当然であるとはいいながら断念していたものを思わず与えられた喜びははかり知れない。ついに、これではじめてワルターの『ベートーヴェン交響曲全集』が全部新しいステレオ録音で聴けることになったのである。決してセカセカしておらず豊かな心地になる音楽そのものを味わえるのは、大いにコロムビア交響楽団の響きの明るさも寄与している。テンポは速過ぎず遅すぎず、メロディ・ラインが優先されるので、フレーズの変わり目ではリズム感は乱れていると感じられるかもしれない。弦楽器群の減速と管楽器が縦一線ではないので表層的には、そう感じられる。エーリッヒ・クライバーとカルロス・クライバーが共有しているものに、ワルターも共通しているようだ。ワルターのステレオ録音は全般に編成の小さなことで目立って聴こえるのか、コロムビア響の〝ストコフスキー・スタイル〟の配置に慣れていなかったのかもしれない。ワルターとオットー・クレンペラーのレパートリーはモーツァルトとマーラーの音楽が大きな柱の一つになっている。周知の通り、ともにユダヤ人であるワルターとクレンペラーはマーラーの直弟子にあたり、マーラーを熱心に取りあげていた。ワルターの演奏は情緒的とされながら、音の出し方は似ている。ただしワルターはアルトゥーロ・トスカニーニのようにオーケストラに対して威圧的な態度をとることがなく、穏和とか柔和というイメージがついているが、当の本人は「私の関心は、響きの明晰性よりもっと高度の明晰性、即ち音楽的な意味の明晰性にある」とか「正確さに専念することで技術は得られるが、技術に専念しても正確さは得られない」と述べているように、音楽的な「明晰性」と「正確さ」を得るためであればアポロンにでもディオニュソスにでもなれる人だった。
- Record Karte
- 1958年1月13、15、17日ハリウッド、アメリカン・リージョン・ホールにてジョン・マクルーアがプロデュースしたステレオ・セッション録音。ワルター晩年のコロムビアへのステレオ録音のベートーヴェン全集からの1枚。国内6EYES初出盤。